Will Kymlicka著、Liberalism Community and Cultureの内容要約

以下は、多文化シティズンシップの議論で知られるW.キムリッカの著作Liberalism Community and Culture(1989)の部分的な要約である(カバーしているのは、序章、第二、三、四、七、八、九章)。邦訳はないはずなので、なにかの役に立つかもしれないと思い、ここに置いておく。要約は私の関心にもとづいて作っているので、バランスは良くないかもしれない。また、間違いが含まれている可能性があるので、関心のある人はきちんと原著にあたってください。

 

要約

序章

 キムリッカによれば、共同体主義者の自由主義批判と、少数派文化の集団的権利に対する自由主義者の無関心の双方は、自由主義が共同体と文化について体系的に説明してこなかったことからくる深刻な問題を抱えている。

 共同体主義者の自由主義批判には大きく3つある。第一に、自由主義者は私たちが社会関係から距離を取る能力を誇張しており、個人の選択の能力とその価値を誇張している(サンデルの批判)。第二に、自由主義者は個人の選択の能力がある種の社会的・文化的文脈のもとでのみ展開・行使できるという事実を無視している。この文脈を保持するための政策は個人の権利の役割と政府の中立性という自由主義者の信念と両立不可能である(テイラーの批判)。第三に、自由主義による正義と権利の強調は、本当の共同体には存在しないであろうある種の対立的・道具的関係を前提しており、それを永続化する(共同体主義者、マルクス主義者、フェミニズムなどの多くの著作にみられる批判)。キムリッカによれば、こうした共同体主義者の批判のそれぞれには強いバージョンと弱いバージョンがあり、強いバージョンは自由主義とは両立不可能だが間違っており、弱いバージョンは正しい重要な主張を含むが、それはすでに自由主義が認めている内容である。本書の前半が扱うのはこうした問題である。

 本書の後半では、文化の複数性に対する自由主義の対応の問題が扱われる。ロールズドウォーキンといった自由主義の哲学者は少数派文化の権利という問題を無視し、自由主義の政治家や法律家は少数派の権利に対し敵対してきた。彼らはアメリカの黒人の隔離という観点から少数派の権利を見てきたために、カラー・ブラインドな憲法の維持が平等な待遇の模範であると考えてきたのである。しかし、黒人の隔離と比較してしまうと、民族的少数者の主張の根底にある文化的成員性(cultural membership)の問題をとらえることができなくなってしまう。キムリッカによれば、文化的成員性は正統な要求をもたらすのであり、少数派の権利のなかにはこの要求に対応するものであり、自由主義の平等性の原則と矛盾しないばかりか、むしろそれによって必要とされるものが含まれるのである。このことをキムリッカは北アメリカの先住民族に与えられてきた特別な地位(special status)、カナダにおけるインディアンやイヌイットの先住権に関する憲法上の議論を事例として論じている。

 第二章は最も擁護可能な自由主義の政治理論を提示し、第三章では正(the right)と善(the good)の関係についてのよくある混同を検討し、第四章から第六章では上述した共同体主義の3つの批判を順に取り上げる。第七章では黒人の隔離と先住民族の特別な地位とのアナロジーの特徴を明らかにし、第八章では、少数派の権利を擁護するための第一段階として、文化的共同体がどのような種類の財であり、それが個人の自由とどのような関係にあり、自由主義の理論にどのように位置づけられるべきなのかを論じる。第九章では、第二段階として、少数派の文化の構成員が文化的共同体の財という観点において他よりも不利な立場に置かれている様態について説明する。第十章では少数派の権利という発想が初期の自由主義の伝統にあったことを主張する。第十一章と十二章では共同体主義者による少数派の権利論との対比により、第十三章ではアパルトヘイトとの対比により、少数派の権利の自由主義的な擁護の特徴を明確にする。最後に第十四章では個人の自由の文脈を規定する上での文化的共同体の役割を明確に位置づけるような自由主義的正義論の課題を提案する。

 

第二章 自由主義

 擁護可能な自由主義は、私たちの本質的な利益は善い人生(a good life)を送ることにあると考える。

 この善は他人から強制されるものではなく、個々人が内面から、価値に関する信念に基づいて追及するものでなければならない。ただし、これは私たちの利益が社会に先立って存在するということを意味しない。私たちの性格、情動や欲望、利益は、社会のなかで形成され、是認される。

 また、私たちは価値に関する判断を間違っている場合がある。このことは、善は合理的に批判することや正当化することが可能であるということを含意する。

 以上から、私たちは、人生に価値を与えるものについての信念にしたがって内面から人生を送ることができなければならず(内面性の前提条件)、また、私たちの文化が提供できる、ありとあらゆる情報や事例や論拠に照らしてその信念を精査できなければならない(修正可能性の前提条件)。この2つの前提条件ゆえに伝統的自由主義者は、市民的自由と個人の自由、および、教育、表現の自由報道の自由、芸術の自由に関心を寄せてきた。

 

第三章 正と善

 各自の善には平等な重みが与えられるべきである。ある種の功利主義のように、善の最大化を正と規定してしまうと、善を最大化するためにある人々の善を他の人々の善のために際限なく犠牲するような分配が肯定されることになる。これに対し、各自の善が平等に重要なものとして扱われることを正とすれば、この正の原則により分配には一定の限界が設けられることになる。

 人々の権利資格(entitlement)は特定の善き人生の構想と結び付けられるべきではない。卓越主義は善き人生のあり方について特定の見解をもっており、人間の完成された状態を開発することが私たちの本質的利益であると定義する。それゆえ、資源はその開発を促進するように分配されるべきであるとされる。しかし、私たちの本質的利益が善き人生を送ることにあるのであれば、私たちは現在追求している目的の価値を疑うことになるかもしれないのであり、また、人生は内側から送られなければならないのだから、私たちは人生の計画を精査・改定できなければならないということになる。そのため、分配は特定の善き人生のみに使えるようになされるのではなく、様々な生活様式を行うために使えるようになされなければならない。

 私たちは自分たちの目的と欲望の形成に責任をもつ。厚生ベースの理論(welfare-based theory)は、私たちがこれらの形成を自分でコントロールすることはできないと考え、正しい分配はこれらのパターンに合わせて調整されなければならないと考えるのに対し、資源ベースの理論(resource-based theory)は、これらの形成は自分でコントロールできると考え、逆にこれらは分配的正義のパターンに合わせて調整されなければならないと考える。

 ただし、資源ベースの理論であっても、公正に帰属される責任の程度には限界がもうけられる。生まれつきの資質の違いについては誰も責任をもたないし、選択にともなう責任も、社会的・自然的境遇によって不利益を被る人を出さないようなメカニズムが確保されている場合にのみ適用されうる。

 

第四章 共同体主義と自己

 共同体主義者のひとりであるサンデルによれば、自己は目的に先行するのではなく、目的によって構成される。共同体の目的と価値は成員のアイデンティティを規定する構成的要素なのである。私たちは共通の社会的文脈に埋め込まれているおかげで、この目的を発見することができるのであり、私たちの人生はこの目的に気づくための条件をもつことでうまくいくようになる。

 これに対し、自由主義者は自己発見が人生の送り方についての判断に取って代わることはないと主張する。私たちは社会的実践や伝統のなかに埋め込まれているのだとしても、その実践が価値あるものがどうかを問うことは可能である。

 サンデルも自己の境界は変更可能であり、新しい目的を取り入れることは可能であると述べている。この弱いバーションの共同体主義者と自由主義者の間に違いはほとんどない。両者は人(person)が目的に先行することを受け入れているのであり、この人の内部のどこに自己(self)の境界を引くのかということをめぐって相違しているだけなのである。しかし、これは政治哲学にとって意味のある問題ではない。

 とはいえ、私たちが目的の価値を判断する能力を持つのだとしても、その判断に自信を持つためには社会的承認が必要であると共同体主義者は反論するかもしれない。自由主義者も自尊心(self-respect)の社会的前提条件を確保することの重要性を肯定する。しかし、自由主義者は自尊心を確保する最善の方法は可能な目的を自由に判断し選択するための条件を提供することだと考える。共同体主義者が人々の背後で作用する、人々が自信の根拠として認識することはできない過程を通じて結果として自信を生み出そうとするのに対し、自由主義は人々の合理性を通じて作用する、つまり、推論過程を阻害する要素や歪める要素を除去することにより自信を生み出そうとする。

 

第七章 文化多元的社会における自由主義

 文化的多元性という状況は少数派文化の権利という問題を引き起こす。

 アメリカにはインディアンの居住地制度があり、インディアンではないアメリカ人の移動、所有、投票権が制限される特別な政治的管轄権を構成している。こうした少数派文化を保護する仕組みは自由主義の理論に先行する、あるいはその枠外にある例外として扱われがちであり、一般的には、自由主義者はこうした政策に反対すると考えられている。というのも、個人主義と平等主義という自由主義原則から論理的に帰結するのは憲法はカラー・ブラインドでなければならないということであり、アファーマティブ・アクションのようなカラー・ブラインドな社会を実現するために必要だと考えられている一時的政策を除けば、人種やエスニシティによって人々を区別する政策はすべて排除されるべきだということになるからだ。

 しかし、先住民族自治を黒人の隔離とのアナロジーでとらえることは間違っている。

 

第八章 文化的成員性の価値

 私たちが自分たちの活動の価値を理解するということはとても重要であり、これはロールズが自尊心と呼ぶもの(「自らの人生計画は実行に値するという感覚」)にとって決定的に重要である。自尊心は合理的な人生計画の一部というよりも、その前提条件(precondition)であり、自尊心をもつことを確かなものとするために、私たちは価値に関する信念を精査し、その価値を是認する自由を必要とする。

 価値に関する信念は目の前に提示される選択肢のなかから自由に選択することで生まれるのだが、選択肢の幅は選べない。私たちは私たちに異なる生活様式を提示する選択の文脈(a context of choice)から選択するのであり、その幅は文化的遺産によって決定されている。

 異なる生活様式はたんなる異なるパターンの物理的運動ではない。たんなる物理的運動が私たちにとって意味をもつのは、文化がそれを意味あるものとして同定するからである。また、ある行為の仕方が私たちにとって意味をもつかどうかは、言語がその活動のポイントを鮮明にするかどうかに、またその仕方にかかっている。そして、言語がこの活動を鮮明にする仕方は文化的遺産と関わっている。言語と歴史は利用可能な選択肢とその意義について意識する際の媒体となるのであり、これは人生の送り方について知性的な判断をする際の前提条件となる。

 ただし、ここでいう文化は歴史的共同体の性格(character)ではなく、文化構造(cultural strcuture)である。性格としての文化という見方は、共同体の規範、価値、およびそれらにともなう制度の変化を文化の喪失とみなす。これに対し、文化構造としての文化という見方は、成員が伝統に価値を見出さなくなり、文化の性格を自由に修正したとしても、文化的共同体は存続し続けると考える。

 以上からしてみれば、文化的成員性は基本財と考えられるべきである。ただし、人々は自らの人生を理解するために文化構造を必要とするのだとしても、そこからはそれが自分たち自身の特定の文化でなければならないということは帰結しない。しかし、人々は重要なかたちで自分自身の特定の文化共同体と結びついている。ある人の生い立ちはその人の構成的部分である。文化的成員性は私たちの人としてのアイデンティティと能力(capacity)の感覚それ自体に影響する。また、文化構造と歴史への所属の感覚は、感情的安心と人としての強さの源である。そうであるからこそ、人種差別主義的で抑圧的な体制は、抑圧対象の人々の人としての能力(efficacy)の感覚を掘り崩すために、彼らの文化を破壊し、貶めようとする。

 私たちの文化的アイデンティティがもつ構成的性質は現在の社会生活の形態に依存した偶発的な事実の結果であり、人間の思想と発展の普遍的な特徴ではないかもしれない。しかし、この現象は私たちの世界に存在するのであり、人々が文化的成員性から引き出す利益と強制的同化の危害の両方に現れている。そうであるならば、文化的成員性という基本財はその個人自身の文化的共同体を指すと解釈すべきである。

 

第九章 少数派文化にとっての平等

 自由主義にとって重要なのは選択と境遇の区別である。人々の境遇から生じる違いは彼らの責任ではなく、不利な境遇によって押し付けられるコストを支払わされるべきではない。

 先住民族の権利は、先住民族以外の権利や資源を制限するので、他者に対し特別な負担をともなうが、この権利要求は不平等な境遇に対する反応として擁護可能である。

 先住民族の文化的共同体は、その存続自体が周囲の非先住民族の決定によって危うくされる。彼らは自らの共同体の存続にとって決定的に重要な資源についてせり負けたり、投票で否決されうる。その結果、彼らは文化的成員性を確保するために資源を費やさなければならなくなるが、これは先住民族以外はただで手に入れるものである。このように、先住民族によって要求される特別な措置は、彼らの選択を助成したり、優遇したりするのではなく、非先住民族が選択が行われる前に手にした利益を是正するための措置なのである。

 特別な政治的権利は選択の文脈における不平等を除去するために必要である。この不平等は先住民族共同体の個々の成員がもはや物質的資源の剥奪に苦しむことがなくなっても残るものなのだから、本当の平等を確保するためには一時的なアファーマティブ・アクションでは十分でなく、集団的権利が必要とされる。